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ウェルビーイング

ウェルビーイングの歴史

「ウェルビーイング(well-being)」とは、人にとって究極的・非道具的に良い状態、つまり人生がどれだけうまくいっているかを表す概念です。哲学分野では「何がその人にとって善いことか」を意味し、快楽主義・欲求理論・客観的リスト理論など様々な理論的定義が議論されてきました。一方、日常的には健康との関連で使われることも多く、医療や心理の領域では身体的・精神的・社会的な包括的な良好さを指す言葉として定着しています。例えば世界保健機関(WHO)は1948年の憲章において、「健康とは身体的・精神的・社会的に完全に良好(well-being)な状態であって、単に病気や虚弱でないことではない」と定義しており、健康概念にウェルビーイングを明示的に組み込みました。このように20世紀半ばからウェルビーイングは「幸福」や「福祉」の同義語として、人間の生活の質(Quality of Life)を包括的に示す概念として用いられるようになりました。

1940年代: 人権と健康におけるウェルビーイング

第二次世界大戦後、国際社会は人間の幸福や生活の質を重視するようになります。1948年の世界人権宣言第25条では、「全ての人には自己と家族の健康および福利(well-being)に必要な生活水準を営む権利がある」と宣言され、基本的人権としてウェルビーイング(福利)の確保が謳われました。同年発足したWHOも前述の通り健康=ウェルビーイングという画期的定義を提示し、従来の「疾病がない状態」から大きく視野を拡張しています。このように1940年代後半には、国際協調のもと人々のウェルビーイングを高めることが世界的課題として浮上しました。

1960年代: 経済成長指標への疑問と社会指標の台頭

高度経済成長の時代に入ると、単純な経済指標である国内総生産(GDP)が国の発展や人々の幸福を充分に表さないことへの問題意識が高まります。アメリカでは1968年にロバート・F・ケネディ上院議員が有名な演説で、GDPについて「子供たちの健康や遊びの喜びも、教育の質も詩の美しさも測れない。それは人生で価値あるもの以外の全てを計っている」と批判しました。この発言は、物質的豊かさだけでは人々のウェルビーイングを捉えきれないことを端的に表現した歴史的提言です。また1960年代にはアメリカを中心に「社会指標運動」が興り、犯罪率や教育水準、生活環境など経済以外の生活の質指標を開発して政策評価に活かそうという動きが始まりました。これはGDP偏重への反省から生まれたもので、人々の幸福(ハピネス)や満足度も含めた総合的な社会発展の測定が模索されるようになります。1960年代末にはブータンの国王が「国民総生産よりも国民総幸福が重要である」と表明し、1972年に「国民総幸福(Gross National Happiness, GNH)」という理念を打ち出しました。これは国の発展指標として経済成長(GNP/GDP)ではなく国民の幸福を重視するという画期的な宣言で、後の各国政府や国際機関に大きな影響を与えました。

1970~1980年代: 幸福研究の復興と主観的ウェルビーイング

1970年代には経済成長と幸福の関係に関する学術研究も進展します。1974年、経済学者リチャード・イースタリンは後に「イースタリンの逆説」と呼ばれる現象を報告しました。それによれば、短期的・断面的には所得が高い人や国ほど幸福度が高い傾向があるものの、長期的に見ると国全体の所得水準が上がっても平均幸福度はそれほど上昇しないというのです。この逆説は「経済成長が必ずしも持続的なウェルビーイングの向上に繋がらない」ことを示唆し、大きな議論を呼びました。こうした流れの中で、1980年代には心理学分野で「主観的ウェルビーイング(Subjective Well-Being: SWB)」の研究が本格化します。1984年には心理学者エド・ディーナーがSWBの概念モデルを提唱し、人が自分の人生を評価するときの3要素(頻繁なポジティブ感情、まれなネガティブ感情、高い人生満足度)を指摘しました。このSWB研究の台頭により、幸福感や人生満足度など主観的な指標をデータとして収集・分析する手法が確立し始めます。1980年代後半にはオランダの社会学者ルート・ヴェーンホーヴェンが世界各国の幸福度データを体系的に集めた「世界幸福データベース」構築に着手するなど、学術界で幸福=ウェルビーイング研究が一つの潮流となりました。

1990年代: 人間開発アプローチとポジティブ心理学の興隆

1990年代に入ると、ウェルビーイングは開発経済学や国際開発の場でも重視されるようになります。1990年、国連開発計画(UNDP)は初の人間開発報告書を発表し、国内総生産ではなく人間の豊かさや選択肢の拡大を重視する新たな開発指標である「人間開発指数(HDI)」を導入しました。これは「経済成長は目的ではなく人間の福祉向上の手段である」との考えに基づき、長寿(健康)、教育、水準以上の生活水準という3要素で各国の発展を評価するものです。HDIの登場は、経済的豊かさ以外のウェルビーイング要素を国際比較・政策目標に組み込んだ画期的な試みでした。同時期、ノーベル賞経済学者のアマルティア・センは「ケイパビリティ(潜在能力)アプローチ」を提唱し、人々が自ら価値ある生活を送るための自由や機会(ケイパビリティ)の重要性を説きました。これは所得では測れないウェルビーイングの質的側面を理論化したもので、人間開発の思想的基盤となりました。

また1990年代末には心理学における「ポジティブ心理学」が誕生します。1998年、マーティン・セリグマンが米国心理学会(APA)会長就任講演で「心理学の使命を人々の幸福や強みの研究に再シフトすべきだ」と訴え、ポジティブ心理学を宣言しました。セリグマンは、従来の心理学が「病の治療」に偏重し「人間をより良くする研究」を怠ってきたと指摘し、人間の強み、美徳、充実した人生(フローリッシュ)を科学的に解明することを呼びかけました。この動きにより幸福やウェルビーイングの心理学的研究が主流の一つとなり、セリグマン自身も2011年にウェルビーイング理論(PERMAモデル)を提唱するなど、学術界でのウェルビーイング概念の深化が進みました。

2000年代: GDP超克の提言と国際機関の指標開発

2000年代に入ると、政府レベルでウェルビーイングを政策目標に据える動きが本格化します。特に2008年、フランスのサルコジ大統領(当時)はジョセフ・スティグリッツ、アマルティア・センら著名経済学者に委嘱し、経済成果と社会的進歩の測定に関する委員会(スティグリッツ=セン=フィトゥシ委員会)を設立しました。

2009年9月に公表された報告書は「GDPの限界」を指摘し、「経済生産の測定から人々のウェルビーイングの測定へと重心を移す時が来た」と強調しました。報告書は、平均的なGDP指標と人々の実感との間にギャップが広がっているとし、「人々の生活の質(クオリティ・オブ・ライフ)を多面的に捉える統計体系」の整備を各国に呼びかけました。具体的には、所得や雇用のみならず健康、教育、環境、人間関係、主観的幸福感などを網羅した指標群を用意し、持続可能性も考慮すべきだとしています。

この報告書は各国政府や国際機関に大きな影響を与え、「Beyond GDP(GDPを超えて)」と呼ばれる指標開発の潮流を加速させました。

2010年代前半: ウェルビーイングの測定と国際的合意

2010年代に入ると、具体的な政策指標としてウェルビーイングを測定・活用する取り組みが世界各国で広がります。イギリスでは2010年に当時のキャメロン首相が「GDPだけでなくGWB(一般的な福祉/well-being)に注目すべき時だ」と演説し、国民の幸福度指標の開発を国家統計局(ONS)に指示しました。これにより2011年から国民幸福度(Well-being)調査が実施され、イギリスは政策評価に主観的幸福度を組み込んだ先進例となりました。同じ2011年には、経済協力開発機構(OECD)が創設50周年を機に「より良い生活指数(Better Life Index)」を発表しています。この指数は住宅、所得、雇用、コミュニティ、教育、環境、市民参加、健康、主観的幸福など11分野にわたり各国の生活の質を比較できるインタラクティブな指標で、政府がウェルビーイングを政策目標として可視化するためのツールとして開発されました。OECDは同時に各国の生活の質を分析する報告書「How’s Life?」シリーズを刊行し、ウェルビーイングを中核に据えた政策評価の枠組みを加盟国に提供しました。

さらに国際連合でも2011年に画期的な決議が採択されています。国連総会決議65/309「幸福への包括的なアプローチ」(2011年7月)は、ブータンが提唱国となり「各国政府に対し国民の幸福とウェルビーイングを重視すること」を正式に呼びかけたものです。この決議は「幸福とウェルビーイングを発展の目的と政策目標に据える」ことを謳っており、加盟各国に新たな指標導入を促しました。この流れを受けて2012年4月、国連本部で「高レベル会合:幸福とウェルビーイング:新たな経済 paradigm の定義」が開催され、併せて初の世界幸福報告(World Happiness Report)が発表されました。世界幸福報告は各国の主観的幸福度(人生満足度)ランキングとその決定要因を分析するもので、以降毎年刊行されるようになります。これにより世界規模でウェルビーイング指標を比較・議論する基盤が整い、国連も2013年から毎年3月20日を「国際幸福デー」と定めてウェルビーイング重視の姿勢を鮮明にしました。

2015年には国連の持続可能な開発目標(SDGs)が採択され、その目標3「すべての人に健康と福祉を」では全ての年齢の人々のウェルビーイングを促進することが掲げられました。SDGsにおいてウェルビーイング(福祉)が明示されたことは、開発アジェンダにおける幸福・生活の質の重要性が世界的に合意されたことを意味します。

2010年代後半: ウェルビーイング経済への政策シフト

2010年代後半になると、従来の経済成長偏重からウェルビーイング経済への転換を掲げる国が増えていきました。代表的なのがニュージーランドで、2019年にジャシンダ・アーダーン首相の下で世界初の「ウェルビーイング予算」が編成されました。この予算では従来のGDP成長率ではなく、メンタルヘルスや児童福祉、先住民の福祉、貧困削減、環境といった国民の生活の質向上に資金を重点配分しています。アーダーン首相は「もはや成長それ自体ではなく、人々がどれだけうまく生活できているか(暮らしやメンタルの充実、環境状況)こそが真の成功指標だ」と述べ、政策判断の中心にウェルビーイングを据える姿勢を鮮明にしました。ニュージーランドの試みは世界的に注目され、同国に続いてアイスランドやスコットランド、フィンランド、ウェールズなどが「ウェルビーイング経済政府(WEGo)」パートナーシップを結成し、知見を共有し始めます。このネットワークは2018年に発足したもので、女性リーダーの率いる北欧・英連邦の小国を中心に経済政策のゴールを幸福と持続可能性に置く共同宣言を行ったものです。さらにアラブ首長国連邦(UAE)のように「幸福大臣」を任命し政府全体で幸福政策を推進する国も現れました。

国際機関の動向としては、OECDが引き続き加盟国のウェルビーイング測定を支援し、2013年には主観的幸福度の測定ガイドラインを策定、2015年・2017年・2020年には「How’s Life?」報告書で各国の幸福度や格差の分析結果を公表しました。欧州連合(EU)も「GDPとそれ以上(Beyond GDP)」イニシアチブを展開し、加盟各国のウェルビーイング指標の開発やデータ収集を後押ししています。例えばイタリアは2013年から「公平かつ持続可能なウェルビーイング指標(BES)」を公式統計に導入し、ドイツも2013年に国民対話を経てウェルビーイング指標セット(国民の生活の質指標)を策定するなど、多くの国で独自の幸福・福祉指標を政策に組み込む動きが広がりました。

2020年代: ポストコロナ時代のウェルビーイング

2020年代に入ると、新型コロナウイルス感染症のパンデミックを契機にウェルビーイングの重要性はさらに増しています。コロナ禍は人々のメンタルヘルスや社会的つながりの価値を再認識させ、各国政府は心の健康や生活の質の維持にこれまで以上に注力するようになりました。例えばイギリスやカナダではロックダウン下での国民の孤独・幸福度に関する調査が行われ、政策立案に活かされました。国際労働機関(ILO)も2025年の報告で「働く人々のディーセント・ワーク(働きがい)の理解に幸福度指標を組み込む重要性」を強調し、主観的幸福度と客観指標を統合した分析の必要性を訴えています。さらに世界幸福報告2023では、パンデミックにもかかわらず世界的な平均幸福度は概ね安定していたことが示され、地域共同体や社会的支援の役割が改めて注目されました。また気候変動や格差拡大への懸念から、「ウェルビーイング経済(Wellbeing Economy)」への移行が国連やOECDで議論され、経済成長よりも人々と地球の福祉を優先する経済モデルの模索が続いています。このようにウェルビーイングは21世紀に入り「人生の目的」としても語られるほど重視される概念となり、政策・学術の両面からその充実を図る動きが定着しています。

おわりに: 人生の目的としてのウェルビーイング

以上のように、20世紀以降のウェルビーイング概念は経済・社会・健康・心理など多領域で拡充され、その定義も「欠乏の無さ」から「積極的充実」へと広がってきました。歴史的には、戦後の人権や健康の基本概念にウェルビーイングが位置づけられ、1960年代以降は物質的豊かさの限界を指摘する声の中で幸福を測る科学が発展しました。1990年代以降は開発や政策評価の文脈で生活の質を捉える指数が次々に生まれ、21世紀には国際目標や各国の予算編成にも「人々の幸福こそが究極目標」との考え方が浸透しています。ウェルビーイングは単なる主観的な幸福感だけでなく、客観的な生活条件や社会との調和、生きがいや目的意識といった多面的な要素を含む概念へと進化しました。各国政府や国際機関はこれを政策に組み込み、人々が真に豊かで満ち足りた人生を送れる社会の実現を目指しています。それはまさに「人生の目的としてのウェルビーイング」を追求する人類の試みであり、今後もデータと科学に基づくウェルビーイング向上策が世界的に展開されていくでしょう。

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